高杉晋作の狂気
2005年10月30日
浜松にて、市長選挙でお世話になった林英臣先生の講演会、テーマは高杉晋作。
長州藩や外国にケンカを売る「狂挙」の一方で、
「亡命の達人」と呼ばれるほどに徹底的に逃げ回ったのは、
吉田松陰から託された「倒幕」という使命があったからでした。
突撃も撤退も、使命さえ見失わなければ歴史を前へ進めます。
以下、私の講義メモです。
051030高杉晋作の狂気と情熱
師・吉田松陰から託されたものを生涯かけて守り抜いた高杉晋作
核になるものを持っていたからこそ、芯がぶれなかった
「自分はこのために生きている」という、託されたものを持っているかどうか
高杉晋作は他人の言うことに従わず、怒り出すと手がつけられなかった
論理的で優秀な久坂玄瑞に対して、突破力のある人材を吉田松陰は待ち望んでいた
師匠が殺された悔しさが晋作の原点であり、倒幕はある意味で仇討ちであった
久坂玄瑞の全国ネットワーク構想に対して、晋作は長州一藩を倒幕の拠点にしようとした
二百石取りの上士の家に生まれた晋作は、幕末志士の中でも例外的に身分が高かった
それでも塾仲間を座敷に上げてもてなすなど、後輩の面倒見が良かった
24歳のときに上海に渡り、英仏の奴隷となる中国の惨状を目の当たりにした
その頃、長州藩は攘夷を決行し、外国船から報復攻撃を受けていた
逃げ出す武士を見て、長州の住民は「侍はあてにならない」と悟った
帰国後、晋作は品川御殿山の英国公使館を焼き討ちする「狂挙」に出た
翌年6月には奇兵隊を創設、正規軍ではない農民中心のゲリラ部隊を組織した
報復に来た連合艦隊との講和条約の正使となり、神話を用いて彦島の香港化を防いだ
堕落した長州軍を倒すべく功山寺決起に集まった人数は80名、その中には伊藤博文もいた
俗論派に勝つと、今度は下関開港を訴えて奇兵隊の仲間たちからも命を狙われた
晋作は「亡命の達人」と呼ばれており、事を成し遂げるために徹底的に逃げた
幕府の長州征伐軍が来ると長州軍に呼び戻され、幕府軍を打ち破った
晋作の「男子はどこで死すべきか?」という問いに対する吉田松陰の答え
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし
僕が所見にては生死を度外に措きてただ言ふべきを言ふのみ
今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし
草莽崛起(そうもうくっき)の人を望むほか頼みなし
晋作の晩年の漢詩
万物元来始終あり
人生いわんや百年の躬少し
競名争利営々として没す
識らず何の娯(たのしみ)か この中に存せん
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