源平争乱と鎌倉仏教

2004年09月27日

松下政経塾1期生の林英臣さんに毎月歴史を学んでいます。
今月のテーマは「源平争乱と鎌倉仏教」。

平清盛、源頼朝、法然、栄西、日蓮・・・
平安の貴族社会から鎌倉の武家社会へ、社会システム変革のはざまに生きた5人が、
末法乱世の中でそれぞれ掲げたビジョンから、私たちは何を学び取れるでしょうか?

以下、私のメモです。

040927林英臣さん「源平争乱と鎌倉仏教」

事業家としては源頼朝よりも平清盛のほうが上
清盛は経済政策として日宋貿易や福原遷都、大輪田の泊と瀬戸内海航路の整備を行った
政治的には旧体制と同じ摂関政治を踏襲した
平氏一族以外を排斥するやり方も藤原氏と同様

源平の合戦は武士の二大勢力が覇権を争ったのではなく、旧体制と新体制の闘い
頼朝は「この度は天下の草創である」という時代観を掲げ、鎌倉に武士を集めた
清盛は一門の繁栄しか考えなかった過渡期の覇権であった

頼朝は幽閉されている間も、九条兼実という藤原派の公家から情報を得ていた
京都の情報より「平氏の天下は長くは続かない」ということを予想していた。
頼朝は政治に長けていたが戦闘が苦手だったので、義経に任せていた
何よりも「武士の政権が興る」というイメージを鮮明に持っていた

今の日本は「清盛以前」、小泉首相が壊し屋を担うと思ったが人気取りに終わった
中央の財政改革で地方にお金が回らなくなっているが、地方の怒りはまだまだ

法然は「知の限界」を感じる中で30年間孤独に仏教を学んだ
当時は末法乱世であり、努力しても現世に希望を持てる状況ではなかった
あらゆる階層の人々が「地獄に落ちること」を怖れていた時代
法然は「ひたすら南無阿弥陀仏と唱えれば大丈夫だ」という教えで人々を救った
当時、仏像建立や寄付に比べて称名念仏は念仏の中でも最もランクの低い修行だった
「すべての人を救う」という本願を持った阿弥陀如来は、称名念仏だけで救ってくれる

栄西は二度も中国に渡って密教を学んだ
二度目はインドを目指したがかなわず、禅を学んで日本に戻った
総合仏教を目指して天台宗・真言宗・禅の三宗兼学を行った
鎌倉武士に流行し、北条政子に支援を受け、京都に年号のついた寺(建仁寺)を建てた
仏像の材料である銅を貧しい人に与えるなどの面もあった

日蓮は「われ日本の柱とならん」という強烈な自覚の持ち主だった
日蓮宗は個人を救うだけでなく天下国家を救う宗教であり、改革こそ信仰の証し
創価学会や立正佼成会など日蓮宗系の宗教が政治的なのは、日蓮本人の影響もある
「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と他宗を激しく攻撃した
幕府に政治改革を3度訴えたが聞き入れられなかった

法然が浄土宗を興したのは混乱のさなか、人々は癒しと救いを求めていた
栄西が臨済宗を興したのは鎌倉幕府の成立前夜、己を総合的に鍛えることが求められた
日蓮が日蓮宗を興したのは鎌倉幕府の安定期、使命感あるリーダーが求められた

時代が人をつくる、時代を見ないとその人に求められる役割は分からない

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